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第16話 七人目の出席

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-10 21:33:13

「六人じゃないよ。ここには七人いる」

 澄花の声が消えるより先に、二年七組の扉が勢いよく閉まった。

 ばあん、と重い音が廊下を震わせる。

 澪の肩に触れていた冷たい指の感触も、同時に消えた。

 布越しに残った冷気だけが、肩から首へ這い上がっている。

 振り返る。

 誰もいない。

 非常灯の薄い緑色を受けた廊下。剥がれた壁紙。雨漏りの染み。朽ちた窓枠。

 人が立てるほどの空間はある。

 だが、そこにいるのは五人だけだった。

 自分。

 朔。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 その足元では、簡易担架に横たわる透が身じろぎ一つせず眠っている。

 五人と、死者一人。

 合わせて六人。

 澪は震える指でスマートフォンを持ち上げた。

 校舎の見取り図には、赤い点が七つ表示されたままだった。

 雨宮澪。

 神代朔。

 早乙女美月。

 黒瀬悠斗。

 白石奈々香。

 相馬透。

 そして、名前のない点。

 七つ目だけが、澪の位置を示す点へ重なるほど近い。

「動かないで」

 美月が言った。

「どうして」

「いいから。一度、そのまま」

 澪は足を止める。

 美月が画面を覗き、赤い点の位置を確かめた。

「じゃあ、右へ一歩」

 言われるまま、澪は廊下の壁側へ移動する。

 自分の点が動いた。

 名前のない赤い点も、ほとんど同じ速度で動く。

 澪の点のすぐ後ろへ。

 奈々香が息を呑んだ。

「もう一回」

 今度は前へ二歩。

 二つの点が同時に進んだ。

 澪が止まる。

 七つ目も止まる。

「嫌……」

 奈々香の顔が引きつった。

「これ、澪を追ってるんじゃないよ」

 唇が小刻みに震える。

「澪の中にいるんじゃないの?」

 その言葉が落ちた瞬間、悠斗が半歩退いた。

 美月も反射的に澪の肩を見た。

 奈々香ははっきりと距離を取った。

 たった数十センチ。

 それでも、澪には教室一つ分ほど遠く感じた。

「やめて」

 美月が奈々香を制する。

「でも、ずっと同じ位置だよ。肩にも触られたんでしょ? それで点が澪についてくるなら――」

「位置情報は偽装できる」

 朔が澪の隣へ立った。

 ほかの三人が空けた距離を埋めるように。

 澪は横顔を見る。

 朔はスマートフォンを取り出し、通信状態を確認していた。声にも手元にも、怯えはほとんど見えない。

「衛星測位じゃない」

「どういうこと?」

 澪が訊く。

「この建物の中で、正確に数メートル単位の位置を拾える状態じゃない。端末は圏外だし、衛星も屋内では誤差が出る。それなのに、表示は校舎内の廊下まで正確に追ってる」

 朔は画面を澪へ見せた。

「誰かが校内に発信機を置いてる。近距離通信の信号を複数使って、端末側へ偽の位置情報を送ることはできる」

「じゃあ、この七つ目も?」

「作れる」

 朔は断言した。

「澪を怖がらせるために、澪の端末が受け取った位置へ一定のずれを加えて、別の点を表示させればいい」

 悠斗が眉を寄せる。

「それなら、全員の画面で同じ動きをする理由は?」

 朔の指が止まった。

 五人の端末には、同じ七つの点が表示されている。

 澪が一歩動くたび、全員の画面上で名前のない点も動いた。

「発信元が、澪の位置を拾ってる」

「何で」

「分からない」

 朔は澪を見た。

「服か荷物に発信器をつけられてる可能性がある。あとで全部確認する」

「今して」

 奈々香が言う。

「お願い。もし澪が持ってる何かが原因なら、今外してよ」

 美月が澪のコート、袖、靴、ポケットを順に調べる。

 赤い組紐の入った袋。

 スマートフォン。

 小銭入れ。

 取材用の薄い手帳。

 ハンカチ。

 それ以外に、不審な機器は見つからなかった。

 朔は赤い組紐の袋も光へ透かしたが、糸と留め具しか入っていない。

「ない」

 美月が言う。

「服の縫い目にも、それらしいものはない」

 奈々香は安心しなかった。

 澪の画面では、七つ目の赤い点がまだ真後ろにいる。

 目には見えない。

 触れもしない。

 それでも、そこにいると端末だけが主張している。

 澪はスマートフォンを伏せた。

「見ない方がいい」

 自分へ言い聞かせるように呟く。

「見ても、何もできない」

 そのとき。

 二年七組の中で、重いものが床へ落ちた。

 どさり。

 五人が一斉に扉を見る。

 閉じた扉の向こうから、紙がめくれる音が続いた。

 ぱら。

 ぱらぱら。

 風のない教室で、何十枚もの紙を誰かが探している。

「また中かよ」

 悠斗が低く吐き捨てた。

 朔は担架を床へ降ろすよう合図した。

 透の身体が揺れないよう、美月と澪が支える。

 奈々香は懐中電灯を両手で握り、扉から離れた。

 朔が取っ手へ触れる前に、二年七組の扉がゆっくり開いた。

 教室の照明は消えている。

 七つの机は元の位置へ戻っていた。

 先ほど中央に置かれていた小さな椅子だけが消えている。

 代わりに、教師用の机の前へ一冊の分厚い帳簿が落ちていた。

 茶色く変色した表紙。

 朔が懐中電灯を向ける。

 金色の文字が、剥げながらも残っていた。

 昭和四十八年度 二年七組

「出席簿……?」

 美月が呟く。

 朔は手袋を着け、帳簿を拾い上げた。

 表紙には長い年月の染みがある。背表紙は裂け、紙の端は黄ばんでいた。少なくとも、今夜作られたものには見えない。

 最初の頁を開く。

 全員が覗き込んだ。

 本来、生徒の名前が並ぶはずの欄には、七人の名前しかなかった。

 雨宮澪。

 神代朔。

 早乙女美月。

 黒瀬悠斗。

 白石奈々香。

 相馬透。

 椎名澄花。

 五人とも、言葉を失った。

「印刷じゃない」

 悠斗が顔を近づける。

「手書きだ」

 黒いインクで書かれている。

 それぞれの名前の右には、出欠を記録する細い欄があった。

 透の名前には、赤い横線が一本引かれている。

 その横へ、几帳面な字で書かれていた。

 欠席。

「欠席って……」

 奈々香が担架を見た。

 透はここにいる。

 死んでいても、校舎の中にいる。

 それなのに、出席簿は彼を欠席として扱っていた。

 次に、澄花の欄を見る。

 濡れた赤い指で押したような大きな丸がついていた。

 紙にはまだ艶がある。

 指で触れれば付着しそうなほど生々しい赤。

 その横には一言。

 出席。

 澪の喉がひどく乾いた。

「澄花は、いるってこと?」

 誰も答えない。

 天井のスピーカーから音がした。

 ぶつ。

 古い放送設備がつながるときの雑音。

 続いて、女性の声が流れた。

『出席を取ります』

 年配の女性教師を思わせる声だった。

 穏やかで、抑揚が少ない。

『名前を呼ばれた人は、返事をしてください』

 教室の扉が、五人の背後で閉まった。

 奈々香が取っ手へ手を掛ける。

「また!」

「待て」

 朔は教卓へ向かった。

 スピーカーの音を聞きながら、机の側面と裏側へ懐中電灯を当てる。

『雨宮澪』

 突然、自分の名を呼ばれ、澪の背筋が伸びた。

 返事ができない。

 誰も促さない。

 数秒の沈黙。

 黒板に、赤い線が一本浮かんだ。

 爪で引っ掻いたような縦線。

『雨宮澪』

 同じ声がもう一度呼ぶ。

「返事して」

 美月が小さく言った。

「何が起きるか分からない」

 澪は唇を湿らせた。

「はい」

 声が教室へ響く。

 黒板の赤い線が消えた。

 机のどこかで、かちり、と小さな機械音がする。

 朔が膝をついた。

「ある」

 教師用の机の裏側へ、掌ほどの黒いスピーカーが固定されていた。

 すぐ横には薄い板状の装置と、教卓の床へ伸びる細い配線。

「圧力センサーだ」

「何のため?」

「人が教室へ入ったことを検知する。扉か床へ仕込んである」

 朔は音声機器の蓋を開く。

 内部には小さな記録媒体とタイマー。

「名前を順番に読み上げるだけなら、これでできる」

 悠斗が長く息を吐いた。

「また仕掛けか」

「そうだ」

 朔はスピーカーを外さない。

「今は止めるな。途中で何が起きるか分からない」

『神代朔』

 教師の声。

「はい」

 朔は機器を見たまま答えた。

 黒板に線は出ない。

『早乙女美月』

「はい」

『黒瀬悠斗』

「……はい」

『白石奈々香』

「はい」

 五人が順番に返事をする。

 最初は年配の女性教師だった声が、名を呼ぶたび僅かに若くなっていた。

 悠斗の頃には四十代ほど。

 奈々香の名を呼んだ声は、二十代の女性に聞こえた。

 そして。

『相馬透』

 声は少女になっていた。

 五人は担架を見る。

 透の顔には美月の上着が半分掛かっている。

 当然、返事はない。

 黒板へ赤い線が一本浮かぶ。

『相馬透』

 もう一度。

 奈々香が口元を押さえた。

「代わりに返事した方がいいの?」

「待って」

 美月が透のそばへ膝をつく。

『相馬透』

 三度目。

 透のポケットで光が灯った。

 全員が息を呑む。

 美月が上着をめくると、透のスマートフォンが勝手に起動していた。

 画面には何も表示されていない。

 通話中でもない。

 音声再生の表示もない。

 それでも、端末のスピーカーから声が流れた。

『はい』

 相馬透の声だった。

 美月の手が止まる。

「今の……」

 奈々香が一歩下がった。

 美月はすぐに端末を取り出した。

 通信履歴。

 録音アプリ。

 再生中のファイル。

 どれも動いていない。

「何も再生されてない」

 画面には、ただ現在時刻が表示されている。

 黒板の赤い線が消えた。

 出席簿では、透の欄にあった〈欠席〉の文字が滲み始める。

 赤いインクが水に溶け、紙へ広がっていく。

 やがて文字は読めなくなった。

 教室のスピーカーから、少女が息を吸う。

『椎名澄花』

 誰も動かなかった。

 澪は七つ目の席を見る。

 空だ。

 カメラにも、今は何も映っていない。

『椎名澄花』

 声が少し近くなる。

 八年前。

 教師が欠席した生徒の名前を呼んだとき、澄花の代わりに澪がふざけて返事をしたことがあった。

 はい、います。

 あとで澄花が笑いながら怒った。

 勝手に私をいることにしないでよ。

 その記憶が、突然鮮明に蘇る。

 澪の唇が動いた。

「は――」

 返事をする直前。

 誰も座っていない七つ目の席から、小さな声がした。

「はい」

 子どもに近い少女の声。

 教室の照明が消えた。

 完全な闇。

 奈々香が息を呑み、美月が透の担架へ手を伸ばす。澪の隣では、朔の手が彼女の腕を掴んだ。

 暗闇の中で、一脚だけ椅子が軋む。

 誰かが立ち上がる。

 濡れた上履きが床を踏む。

 一歩。

 二歩。

 澪のすぐ前を通り過ぎる。

 赤い組紐の入った袋が、ポケットの中で僅かに温かくなった。

 照明が戻った。

 七つ目の席は空だった。

 黒板いっぱいに、白い大きな丸が描かれている。

 その中央へ文字が浮かんだ。

 一つ目

 七人目の出席

 終了

 五人のスマートフォンが同時に震えた。

 画面に、七つの学校章が横一列に並んでいる。

 古い校章を模した丸い印。

 一つだけが、血のような赤で塗られていた。

 残る六つは黒い。

「七つ……」

 美月が呟く。

 新しい文章が表示される。

 二つ目は音楽室。

 校歌を最後まで聞いてください。

 途中で耳を塞いだ人は帰れません。

 悠斗が画面を睨んだ。

「ふざけやがって」

 その瞬間。

 廊下の奥から、ピアノの音が聞こえた。

 一音。

 少し間を置いて、二音目。

 誰かが古い鍵盤を確かめるように、ゆっくりと弾いている。

 やがて音は一つの旋律になった。

 八年前、この校舎で聞いた七刻女学校の校歌だった。

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