ログイン「六人じゃないよ。ここには七人いる」
澄花の声が消えるより先に、二年七組の扉が勢いよく閉まった。
ばあん、と重い音が廊下を震わせる。
澪の肩に触れていた冷たい指の感触も、同時に消えた。
布越しに残った冷気だけが、肩から首へ這い上がっている。
振り返る。
誰もいない。
非常灯の薄い緑色を受けた廊下。剥がれた壁紙。雨漏りの染み。朽ちた窓枠。
人が立てるほどの空間はある。
だが、そこにいるのは五人だけだった。
自分。
朔。
美月。
悠斗。
奈々香。
その足元では、簡易担架に横たわる透が身じろぎ一つせず眠っている。
五人と、死者一人。
合わせて六人。
澪は震える指でスマートフォンを持ち上げた。
校舎の見取り図には、赤い点が七つ表示されたままだった。
雨宮澪。
神代朔。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
相馬透。
そして、名前のない点。
七つ目だけが、澪の位置を示す点へ重なるほど近い。
「動かないで」
美月が言った。
「どうして」
「いいから。一度、そのまま」
澪は足を止める。
美月が画面を覗き、赤い点の位置を確かめた。
「じゃあ、右へ一歩」
言われるまま、澪は廊下の壁側へ移動する。
自分の点が動いた。
名前のない赤い点も、ほとんど同じ速度で動く。
澪の点のすぐ後ろへ。
奈々香が息を呑んだ。
「もう一回」
今度は前へ二歩。
二つの点が同時に進んだ。
澪が止まる。
七つ目も止まる。
「嫌……」
奈々香の顔が引きつった。
「これ、澪を追ってるんじゃないよ」
唇が小刻みに震える。
「澪の中にいるんじゃないの?」
その言葉が落ちた瞬間、悠斗が半歩退いた。
美月も反射的に澪の肩を見た。
奈々香ははっきりと距離を取った。
たった数十センチ。
それでも、澪には教室一つ分ほど遠く感じた。
「やめて」
美月が奈々香を制する。
「でも、ずっと同じ位置だよ。肩にも触られたんでしょ? それで点が澪についてくるなら――」
「位置情報は偽装できる」
朔が澪の隣へ立った。
ほかの三人が空けた距離を埋めるように。
澪は横顔を見る。
朔はスマートフォンを取り出し、通信状態を確認していた。声にも手元にも、怯えはほとんど見えない。
「衛星測位じゃない」
「どういうこと?」
澪が訊く。
「この建物の中で、正確に数メートル単位の位置を拾える状態じゃない。端末は圏外だし、衛星も屋内では誤差が出る。それなのに、表示は校舎内の廊下まで正確に追ってる」
朔は画面を澪へ見せた。
「誰かが校内に発信機を置いてる。近距離通信の信号を複数使って、端末側へ偽の位置情報を送ることはできる」
「じゃあ、この七つ目も?」
「作れる」
朔は断言した。
「澪を怖がらせるために、澪の端末が受け取った位置へ一定のずれを加えて、別の点を表示させればいい」
悠斗が眉を寄せる。
「それなら、全員の画面で同じ動きをする理由は?」
朔の指が止まった。
五人の端末には、同じ七つの点が表示されている。
澪が一歩動くたび、全員の画面上で名前のない点も動いた。
「発信元が、澪の位置を拾ってる」
「何で」
「分からない」
朔は澪を見た。
「服か荷物に発信器をつけられてる可能性がある。あとで全部確認する」
「今して」
奈々香が言う。
「お願い。もし澪が持ってる何かが原因なら、今外してよ」
美月が澪のコート、袖、靴、ポケットを順に調べる。
赤い組紐の入った袋。
スマートフォン。
小銭入れ。
取材用の薄い手帳。
ハンカチ。
それ以外に、不審な機器は見つからなかった。
朔は赤い組紐の袋も光へ透かしたが、糸と留め具しか入っていない。
「ない」
美月が言う。
「服の縫い目にも、それらしいものはない」
奈々香は安心しなかった。
澪の画面では、七つ目の赤い点がまだ真後ろにいる。
目には見えない。
触れもしない。
それでも、そこにいると端末だけが主張している。
澪はスマートフォンを伏せた。
「見ない方がいい」
自分へ言い聞かせるように呟く。
「見ても、何もできない」
そのとき。
二年七組の中で、重いものが床へ落ちた。
どさり。
五人が一斉に扉を見る。
閉じた扉の向こうから、紙がめくれる音が続いた。
ぱら。
ぱらぱら。
風のない教室で、何十枚もの紙を誰かが探している。
「また中かよ」
悠斗が低く吐き捨てた。
朔は担架を床へ降ろすよう合図した。
透の身体が揺れないよう、美月と澪が支える。
奈々香は懐中電灯を両手で握り、扉から離れた。
朔が取っ手へ触れる前に、二年七組の扉がゆっくり開いた。
教室の照明は消えている。
七つの机は元の位置へ戻っていた。
先ほど中央に置かれていた小さな椅子だけが消えている。
代わりに、教師用の机の前へ一冊の分厚い帳簿が落ちていた。
茶色く変色した表紙。
朔が懐中電灯を向ける。
金色の文字が、剥げながらも残っていた。
昭和四十八年度 二年七組
「出席簿……?」
美月が呟く。
朔は手袋を着け、帳簿を拾い上げた。
表紙には長い年月の染みがある。背表紙は裂け、紙の端は黄ばんでいた。少なくとも、今夜作られたものには見えない。
最初の頁を開く。
全員が覗き込んだ。
本来、生徒の名前が並ぶはずの欄には、七人の名前しかなかった。
雨宮澪。
神代朔。
早乙女美月。
黒瀬悠斗。
白石奈々香。
相馬透。
椎名澄花。
五人とも、言葉を失った。
「印刷じゃない」
悠斗が顔を近づける。
「手書きだ」
黒いインクで書かれている。
それぞれの名前の右には、出欠を記録する細い欄があった。
透の名前には、赤い横線が一本引かれている。
その横へ、几帳面な字で書かれていた。
欠席。
「欠席って……」
奈々香が担架を見た。
透はここにいる。
死んでいても、校舎の中にいる。
それなのに、出席簿は彼を欠席として扱っていた。
次に、澄花の欄を見る。
濡れた赤い指で押したような大きな丸がついていた。
紙にはまだ艶がある。
指で触れれば付着しそうなほど生々しい赤。
その横には一言。
出席。
澪の喉がひどく乾いた。
「澄花は、いるってこと?」
誰も答えない。
天井のスピーカーから音がした。
ぶつ。
古い放送設備がつながるときの雑音。
続いて、女性の声が流れた。
『出席を取ります』
年配の女性教師を思わせる声だった。
穏やかで、抑揚が少ない。
『名前を呼ばれた人は、返事をしてください』
教室の扉が、五人の背後で閉まった。
奈々香が取っ手へ手を掛ける。
「また!」
「待て」
朔は教卓へ向かった。
スピーカーの音を聞きながら、机の側面と裏側へ懐中電灯を当てる。
『雨宮澪』
突然、自分の名を呼ばれ、澪の背筋が伸びた。
返事ができない。
誰も促さない。
数秒の沈黙。
黒板に、赤い線が一本浮かんだ。
爪で引っ掻いたような縦線。
『雨宮澪』
同じ声がもう一度呼ぶ。
「返事して」
美月が小さく言った。
「何が起きるか分からない」
澪は唇を湿らせた。
「はい」
声が教室へ響く。
黒板の赤い線が消えた。
机のどこかで、かちり、と小さな機械音がする。
朔が膝をついた。
「ある」
教師用の机の裏側へ、掌ほどの黒いスピーカーが固定されていた。
すぐ横には薄い板状の装置と、教卓の床へ伸びる細い配線。
「圧力センサーだ」
「何のため?」
「人が教室へ入ったことを検知する。扉か床へ仕込んである」
朔は音声機器の蓋を開く。
内部には小さな記録媒体とタイマー。
「名前を順番に読み上げるだけなら、これでできる」
悠斗が長く息を吐いた。
「また仕掛けか」
「そうだ」
朔はスピーカーを外さない。
「今は止めるな。途中で何が起きるか分からない」
『神代朔』
教師の声。
「はい」
朔は機器を見たまま答えた。
黒板に線は出ない。
『早乙女美月』
「はい」
『黒瀬悠斗』
「……はい」
『白石奈々香』
「はい」
五人が順番に返事をする。
最初は年配の女性教師だった声が、名を呼ぶたび僅かに若くなっていた。
悠斗の頃には四十代ほど。
奈々香の名を呼んだ声は、二十代の女性に聞こえた。
そして。
『相馬透』
声は少女になっていた。
五人は担架を見る。
透の顔には美月の上着が半分掛かっている。
当然、返事はない。
黒板へ赤い線が一本浮かぶ。
『相馬透』
もう一度。
奈々香が口元を押さえた。
「代わりに返事した方がいいの?」
「待って」
美月が透のそばへ膝をつく。
『相馬透』
三度目。
透のポケットで光が灯った。
全員が息を呑む。
美月が上着をめくると、透のスマートフォンが勝手に起動していた。
画面には何も表示されていない。
通話中でもない。
音声再生の表示もない。
それでも、端末のスピーカーから声が流れた。
『はい』
相馬透の声だった。
美月の手が止まる。
「今の……」
奈々香が一歩下がった。
美月はすぐに端末を取り出した。
通信履歴。
録音アプリ。
再生中のファイル。
どれも動いていない。
「何も再生されてない」
画面には、ただ現在時刻が表示されている。
黒板の赤い線が消えた。
出席簿では、透の欄にあった〈欠席〉の文字が滲み始める。
赤いインクが水に溶け、紙へ広がっていく。
やがて文字は読めなくなった。
教室のスピーカーから、少女が息を吸う。
『椎名澄花』
誰も動かなかった。
澪は七つ目の席を見る。
空だ。
カメラにも、今は何も映っていない。
『椎名澄花』
声が少し近くなる。
八年前。
教師が欠席した生徒の名前を呼んだとき、澄花の代わりに澪がふざけて返事をしたことがあった。
はい、います。
あとで澄花が笑いながら怒った。
勝手に私をいることにしないでよ。
その記憶が、突然鮮明に蘇る。
澪の唇が動いた。
「は――」
返事をする直前。
誰も座っていない七つ目の席から、小さな声がした。
「はい」
子どもに近い少女の声。
教室の照明が消えた。
完全な闇。
奈々香が息を呑み、美月が透の担架へ手を伸ばす。澪の隣では、朔の手が彼女の腕を掴んだ。
暗闇の中で、一脚だけ椅子が軋む。
誰かが立ち上がる。
濡れた上履きが床を踏む。
一歩。
二歩。
澪のすぐ前を通り過ぎる。
赤い組紐の入った袋が、ポケットの中で僅かに温かくなった。
照明が戻った。
七つ目の席は空だった。
黒板いっぱいに、白い大きな丸が描かれている。
その中央へ文字が浮かんだ。
一つ目
七人目の出席 終了五人のスマートフォンが同時に震えた。
画面に、七つの学校章が横一列に並んでいる。
古い校章を模した丸い印。
一つだけが、血のような赤で塗られていた。
残る六つは黒い。
「七つ……」
美月が呟く。
新しい文章が表示される。
二つ目は音楽室。
校歌を最後まで聞いてください。 途中で耳を塞いだ人は帰れません。悠斗が画面を睨んだ。
「ふざけやがって」
その瞬間。
廊下の奥から、ピアノの音が聞こえた。
一音。
少し間を置いて、二音目。
誰かが古い鍵盤を確かめるように、ゆっくりと弾いている。
やがて音は一つの旋律になった。
八年前、この校舎で聞いた七刻女学校の校歌だった。
澪の布団に座った返し雛は、それから一度も動かなかった。 朔のカメラには台所の透明ケースへ収められた姿が映り続けているのに、現実では赤い着物の人形が枕を背にして両手を膝へ置いている。 カメラを別角度から向けても結果は変わらず、液晶の中では空のはずのケースに人形があり、布団には何も映らなかった。 奈々香のスマートフォンだけはさらに違い、布団の上へ制服姿の少女を映したまま、返し雛そのものを一度も捉えなかった。「返す場所は、ここじゃない」 澪は、布団の脇に落ちていた紙をもう一度読んだ。 澄花の筆跡に見える一行は、それ以上の手掛かりを与えない。 二〇三号室へ来いと指示され、人形までここへ現れたのに、部屋そのものが目的地ではないのなら、残るのは壁の奥か床下、あるいは図面に存在しない空間だった。 返し雛へ触れることは避け、六人は二〇三号室を改めて調べ直すことにした。 蓮司は建物図面と実測値を照合し、悠斗は管理会社から送られてきた古い改修記録を追い、美月は過去の失踪者が残した相談記録を一件ずつ見直した。 朔は押し入れの空洞と新しい監視設備の接続先を調べながら、澪へ単独で動かないよう何度も念を押した。 昨夜、枕元まで裸足の足跡が来ていたことを考えれば当然の注意なのに、その言葉を素直に安心へ変えられない自分が澪には苦しかった。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 胸元の手帳に隠した澄花の言葉が、カメラと現実で異なる返し雛を見るたび鮮明になる。 朔自身が映像を偽っているのか、それとも澄花が別の意味を伝えようとしていたのか、まだ判断できない。 だから澪は人形から視線を外し、二〇三号室の中で、まだ詳しく調べていない場所を探した。 浴室は玄関脇の細い通路の奥にあった。 古いユニット式ではなく、後から改装されたらしい小さな洗い場と深い浴槽があり、隣に幅の狭い洗面台が設けられている。 蛇口の金属には白い水垢がこびりつき、照明をつけても薄暗い。 洗面台の上にある長方形の鏡は全面が曇り、端の銀引きが黒く腐食していた。「ここも壁が厚い」 蓮司が計測器を当てた。 洗面所と隣室を隔てるだけにしては二十センチ近い誤差があり、押し入れ側と同じく壁内に空間がある可能性が高い。 悠斗は改修図面を開いたが、浴室裏には給排水管用の空間しか記載され
藤崎杏奈の電話は、それから何度かけてもつながらなかった。 呼び出し音すら鳴らず、機械的な案内だけが同じ文句を繰り返す。 蓮司は杏奈の現在住所と、先ほどまで通話が成立していた時刻を警察へ伝え、安否確認を依頼した。 常世荘から数百キロ離れた町だと説明すると、管轄をまたいで確認することになると言われたが、蓮司は引かなかった。「人形の話はしないの?」 奈々香が低い声で訊いた。 顔色はまだ悪く、押し入れの前へ落ちた赤い組紐の切れ端を避けるように壁際へ寄っている。 蓮司は電話が切れる直前、玄関の中へ見覚えのない日本人形が現れたと杏奈本人が話していたことまで伝えたと答えた。 信じるかどうかは警察の判断だが、安否確認に必要な情報は一つも省かないという。 端末を置いた蓮司の手は、机へ触れる直前にわずかに力んでいた。 妹の失踪を八年間追ってきた彼にとって、杏奈は初めて突き止めた生存者であり、しかも事件翌日の澄花を見た証人だった。 その杏奈まで消えれば、また一つ澄花へつながる声が失われる。 澪は彼の焦りを言葉ではなく、何度も通話履歴を確認する指先から感じ取った。 昼を過ぎた常世荘二〇三号室には、朝よりも明るい光が入っていた。 窓の外では洗濯物が揺れ、階下から掃除機の音が響いてくる。 昨夜、押し入れから澪の枕元まで裸足の跡が続いていた部屋とは思えないほど、生活の音が近かった。 それでも奥板を外したままの押し入れだけは光を吸い込む穴のように暗く、剥き出しの配管と断熱材が奥へ沈んでいる。「杏奈さんが見た男も、こういうところにいたんだよね」 美月が壁内部へ懐中電灯を向けると、朔は十二年前なら今より奥まで通れた可能性があると答えた。 午前中に外したスピーカーと小型カメラは透明袋へ封じてあり、空洞に残しているのは自分たちが設置した監視用カメラだけだった。 悠斗が昨日調べた時点では途中をコンクリート壁に塞がれていたと確認すると、蓮司は隣の二〇二号室側からも構造を測るべきだと立ち上がった。 そのとき奈々香の息が止まり、全員が彼女の視線を追った。 狭い台所には古い流し台と小さな冷蔵庫があり、壁際には使われていない木製の低い椅子が一脚置かれている。 その椅子の上に、いつの間にか日本人形が座っていた。 黒い髪、白い顔、古びた赤い着物、小さな両手を膝の上へ揃え
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
朝になっても、押し入れから続いていた裸足の跡は消えなかった。 夜のうちに美月が一つずつ写真へ残し、朔も別角度から撮影していたが、窓を開けて朝の光を入れても、それらは畳へ薄い水染みを作ったままだった。押し入れの奥に設置した監視用カメラは、午前一時十一分から十三分までの二分間だけ記録が欠けている。電源は落ちておらず、保存領域にも破損はないのに、その時間だけ映像そのものが存在しなかった。「写真が撮られた時間と重なる」 朔は端末の時刻を照合しながら言った。 眠っている澪を押し入れから撮影した写真は午前一時十二分。その前後だけ、こちらが設置したカメラは何も記録していない。人間が侵入して記録を消したなら、もっと痕跡が残るはずだった。押し入れの壁内空間には新しい擦れ跡もなく、昼間外した盗撮用カメラも封じた袋の中に残っている。 澪は枕元に残った最後の足跡から目を逸らした。 昨夜、暗闇の押し入れから確かに女が息を吸った。それを聞いた直後に美月たちを起こしたが、壁の中には誰もいなかった。隣室から駆け込んだ朔と悠斗、さらに二〇二号室から来た蓮司も空洞を確認したものの、人間が逃げた形跡は見つからなかった。 午前九時を過ぎる頃、蓮司と悠斗は二〇三号室の低い机へ過去の入居記録を広げていた。「七人という前提から見直す」 蓮司が言った。 昨夜まで、常世荘二〇三号室から失踪した女性は七人とされていた。管理記録、家財放置、近隣住民の証言をつなげれば、確かに七人が突然部屋からいなくなっている。しかし蓮司が警察の公開情報や過去の住民票移動、旧住所の記録を重ねると、三人だけ数字が合わなかった。「この三人」 蓮司が赤い線を引く。「警察の行方不明者データに一致しない」 悠斗が資料を覗き込む。「届け出が出てないだけじゃないのか」「一人ならあり得る。三人とも住民票が別地域へ移ってる」 澪が顔を上げた。「じゃあ、生きてる?」「少なくとも転居手続きはされている」「本人が?」「そこまでは分からない。ただ、死亡や失踪の扱いではない」 美月も資料へ近づいた。「家財は残したのに、住民票だけ移した?」「そうなる」 奈々香が毛布を肩へ掛けたまま首を振った。「普通、引っ越すなら荷物持っていくよね」「普通なら」 蓮司の声は低かった。 七人のうち、本当に行方が分からなくなって
押し入れの奥板は、外から見るより新しかった。表面には古い木材に似せた染みと擦り傷がつけられているが、朔が釘へ懐中電灯を寄せると、頭の縁にはほとんど錆がなかった。蓮司は壁厚を測った計測器を床へ置き、板の左右を指で叩いて空洞の広がりを確かめる。さっきまで向こう側から聞こえていた「出して」という女の声も、爪で木を引っかく音も、今は完全に消えていた。「外す。板が倒れるかもしれないから離れて」 朔が工具を差し込み、蓮司が反対側を押さえた。悠斗は押し入れの前へ古い毛布を敷き、美月は奈々香を畳の中央まで下がらせる。一本目の釘が抜けると乾いた金属音が落ち、二本目、三本目と続くたび、壁の向こうから冷たい空気が細く漏れ始めた。最後の固定部を外して二人が板を手前へ引くと、湿った断熱材と古い配管の臭いが六畳間へ流れ込んだ。 壁の中には、人ひとりが横向きになれば辛うじて進めるほどの空洞があった。左右には柱が立ち、灰色に変色した断熱材が垂れ、細い水道管と電線が奥へ伸びている。懐中電灯の光は数メートル先まで届いたが、人影はなく、女が何人も隠れられる幅もない。床代わりの梁には埃が厚く積もっており、たった今誰かが逃げたような擦れや足跡も見えなかった。「いない……」 奈々香が胸元を押さえた。安堵しかけた声だったが、美月は空洞から目を離さず、さっき三つ以上の声を聞いたと静かに確認した。人間がいたなら板を外す間に奥へ移動したことになるが、複数人がこの狭さを通れば、断熱材や埃に何か残るはずだった。蓮司も同じ考えらしく、床と柱の接触部へ光を走らせたあと、眉を寄せた。「俺が入る」 朔は小型カメラを胸元へ固定し、身体を横へ向けて空洞へ滑り込んだ。澪が呼び止めると、数メートルだけ確認し、何か見えても追わないと返す。暗い隙間へ消えていく背中を見送りながら、澪は胸元の手帳を服越しに押さえた。そこには、音楽室で見つけた澄花の字がまだ隠されている。〈朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない〉という一文は、見せる機会を逃したまま、彼を信じたい気持ちと疑うべきだという警戒の間に重く挟まっていた。 壁の中で衣擦れが響き、やがて朔が「見つけた」と声を返した。戻ってきた手には、掌ほどの黒いスピーカーがあった。背面には人感センサーと小型電池があり、壁内部を通る細い配線へ接続されている。朔が電源を入れ
夕方の常世荘は、あまりにも普通だった。七刻女学校のように山の闇へ隔離されているわけでも、立入禁止の鎖が巻かれているわけでもない。古い住宅街を横切る細い道路には買い物帰りの自転車が走り、少し離れた公園では小学生らしい子どもたちがボールを追いかけている。夕食の支度をしている家から焼いた魚の匂いが漂い、犬を連れた老人が常世荘の前を何の警戒もなく通り過ぎた。その日常の中央に、築四十年以上の二階建て木造アパートは何食わぬ顔で建っていた。 黄ばんだ外壁には雨垂れの黒い筋が幾つも走り、鉄製の外階段は錆びて赤茶色に変色している。二階へ渡る廊下の手摺には住民が干した小さなタオルが揺れ、建物脇の駐輪場には子ども用の自転車まで置かれていた。昨夜までいた廃校のような、近づくだけで人を拒絶する圧迫感はない。だからこそ澪には怖かった。七人の女性が消えた部屋のすぐ下で、誰かが普通に夕飯を食べ、風呂を沸かし、明日の仕事を考えながら暮らしている。「写真より、ずっと普通だね」 奈々香が小さく言った。借りた衣服へ着替えてはいたものの、左耳にはまだ薄いガーゼが貼られており、疲労の残る顔にはほとんど化粧がない。常世荘を見上げるたび、無意識に髪を耳の後ろへ押し込んでいた。「普通の建物ほど、住み続ける理由ができる」 蓮司が答えた。黒いジャケットの下には調査用の薄いベストを着込み、手には小型の計測器と書類鞄を持っている。「先に言っておくが、俺は呪いに付き合うために来たわけじゃない。妹がここへ来た可能性を調べる。それだけだ」「七日間は泊まらない?」 奈々香が訊くと、蓮司は視線だけを向けた。「要求した相手が人間なら、従う理由はない」「七刻女学校でも、それで済まなかった」 悠斗が低く返した。「だから今回は、何が人間の仕掛けで、何が違うのか最初から切り分ける」 朔が常世荘の屋根と外壁へ視線を走らせる。仕事用の小型カメラは胸元へ固定されていたが、七刻女学校を出てから澪はその赤い録画表示を見るたびに、胸の内側へ小さな棘が刺さるようになっていた。澄花の楽譜に残されていた一文は、まだ手帳の中へ挟んだままである。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 見せるべきかと何度も考えた。だが、透を殺す装置に朔の技術が使われていたこと、八年前のカメラと同じ識別番号で今夜の映像が記録され